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高江スラップ訴訟 判決の問題点と今後の課題(弁護士喜多自然) なぜたたかえるのか(ヘリパッドいらない住民の会 伊佐真次)

 

高江スラップ訴訟 判決の問題点と今後の課題

弁護士 喜 多 自 然

1 高江ヘリパッド建設問題とは
 沖縄県本島北部に位置する米軍基地の北部訓練場については,日米両政府が1995年に設置した沖縄に関する特別行動委員会(SACO)において,既存のヘリパッドを同訓練場の残余部分に移設することなどを条件に,同訓練場の過半を返還することとなった。しかし,新たに設置予定の6か所のヘリパッドは,東村内の人口約160人ほどの高江集落から2キロメートル以内の位置に,集落を取り囲むように配置する計画であったことから,住民を中心に反対運動が繰り広げられてきた。その中で,県道からヘリパッド建設予定地へ通じる入口部分で,訪れた防衛局職員に対して住民が話し合いを求めるということも行われており,国がこの点について裁判を起こしてきたのが本件である。


2 裁判手続の経過
 国(沖縄防衛局)は,2008年11月,高江住民ら15名に対して,那覇地方裁判所に通行妨害禁止の仮処分の申立てをした。これに対して裁判所は,2009年12月,2名について通行妨害を禁止する仮処分決定を出した。その後,国は,この2名について通行妨害禁止の本訴訟を提起したが,地裁判決はこのうち1名について通行妨害禁止を命じるものであり,この判断は2013年6月の高裁判決でも維持されてしまった。住民は上告及び上告受理申立をしたが2014年6月13日,上告棄却,上告不受理決定がなされ,訴訟が終了した。


3 判決の問題点
①スラップ訴訟という実態を無視
 この裁判は,反対運動の弾圧,威嚇目的で起こされた訴訟であった。住民運動に対する恫喝,弾圧目的の裁判は,スラップ(SLAPP,Strategic Lawsuit Against Public Participation)訴訟と呼ばれる。
 国は全国から高江に集まる者の中からあえてほぼ高江住民のみを選別して最初の仮処分の申立てをしたが,その中には,ほとんど建設現場に足を運んだことのない者もいたし,妨害行為の日時,場所,態様の多くが特定されていないずさんなものであった。しかも国は,反対運動に関するブログや署名,コメントの掲載された新聞記事などの言論を大量に証拠として提出してきた。高江の住民を裁判の場に引きずり出し,その表現活動を監視し,言論活動を萎縮させるのが国の狙いだった。
 しかし,裁判所はこのような訴訟の本質には全く踏み込まず,「抗議・監視活動全般に対する萎縮的効果が生じるとはいえない」(控訴審判決)といった実態とかけ離れた判断をした。
②住民の抵抗や表現の自由の無理解
 通行妨害の禁止命令が出た1名が工事現場で行ったのは,工事を行おうとした防衛局員と話し合いの機会を持とうとしたということにすぎない。時間も短時間であり,暴力的なことは一切行っていない。しかし,裁判所は,ゲート前に立ったという点を捉えて「物理的方法により妨害」(控訴審判決)したとし,国が「受忍すべき限度を超える」(控訴審判決)と判断した。
 高江で繰り広げられているのは,何が何でも国策を実現しようとする国家権力に対して,これにより生活が脅かされる住民の非暴力の抵抗という構図である。圧倒的に力を持っているのは前者であるから,住民の抵抗は非暴力である限り尊重されなければならない。そのことを保障するのが表現の自由のはずである。
 しかし,判決は,そのような国家権力と住民との関係性を無視し,「ゲート前に立った」という点だけを切り出して形式的な判断をしたにすぎない。国家権力と住民の関係や表現の自由の重要性ついて全く理解がなかった。


4 今後の課題
 住民の抵抗が続く中,建設予定の6つのヘリパッドのうち2つは2014年7月時点で完成してしまった。
 7月からは名護市辺野古の新基地建設の工事も始まり,建設予定地のキャンプシュワブのゲート前での反対運動,海上でカヌー隊の反対運動が繰り広げられている。
 安倍政権は沖縄の基地機能強化を徹底する政策を強行に進めており,反対運動の弾圧は日に日に強まっている。
 沖縄の住民がなぜ新基地建設に反対するのか,どうしてそれが尊重されなければならないのか,この点は裁判所で理解されなかったが,落胆せず全国に向けて発信し続けていくことが重要である。

以 上

 

なぜたたかえるのか

ヘリパッドいらない住民の会 伊 佐 真 次

 

 テーマが「高江スラップ 今、どんな思いか」ということですが専門的なことは喜多自然先生にまかせて、どうして基地問題があるのか、反対運動があるのか暮らしのなかから思いを綴りました。

 

○戦争、基地と隣り合わせの日常

 沖縄がまだドルを使っていた頃に私は生まれた。親戚から1ドル入ったお年玉袋を渡されたときは「えっ、こんなに貰っていいの?」って感じだった。ペルー帰りの親戚で、もうすっかり顔は思い出せないけどいつもご馳走を土産にもってきた。ペルー風かどうかわからないけど変わった料理を作って来てくれた。まわりの大人たちとどこか違うと子どもながら感じていた。我が家は9人家族。両親と祖母、6人兄弟(5番目が私)で、両親は共稼ぎ、祖母は夫と長男、次男を戦争で亡くし三男と妹2人が生き残った。三男が私の父である。
 長男次男を亡くした祖母は父を可愛がり、妹たちとランクの違う食事をだしていた、と叔母は愚痴をこぼしていた。
 近所にアメリカ製の食品を売るおばあさんがいた。どこで仕人れてくるのかわからないけどアメリカーの食品を母が買っていた。腹を空かせた少年は粉ミルクを水で溶かさずビンに指を突っ込んでしゃぶって食べたり、食器棚の上に置かれていた「強力わかもと」を学校から帰るとおやつ代わりに食べていた。ベトナム戦争真っ盛りでB52という大型爆撃機の垂直尾翼が嘉手納飛行場の高い塀を超え見えていた。ここがベトナムへの出撃基地となった。家の1キロ先の空き地に米軍ヘリが故障か何かで緊急着陸したのを父と見に行ったこともある。幼い頃の海は、泳ぐというより恵みの海であり、味噌汁などの具の宝庫だった。しかしそこには米軍の通信施設があり、浜の陸側には金網が張り巡らされ入ることはできない。満潮になると金網に沿って帰るしかないのだ。
 祖国復帰運動が盛んになり小学1年のとき歌唱コンクールの学級代表になって歌ったのは「日の丸の旗」という歌だった。もちろん先生が選曲したもので「白地に赤く日の丸染めてああ美しい日本の旗は」という歌詞でそこまでしか覚えていないけど調べてみたら2番まであって、発表当時は「ああ勇ましや」が戦後改訂版では「ああ美しや」に変わっているので改訂版を歌わされたのだろう。テレビのニュースもデモの様子を流していて先生たちも参加していたのだろうな。
 87才で他界した祖母は戦前から戦後苦労して生きてきて気も荒かったようだ。テレビのレスリング番組をリングサイドで観ているかのように外人レスラーに罵声を浴びせていた。そんな性格の彼女は天皇の番組「皇室なんちゃら」で昭和天皇の顔が映ると「クスマイテンノー」とよく言っていた。直訳すると「糞する天皇」だが「クソッタレ」という意味でいいと思う。お国の為にたたかい、夫と息子、親族を奪われ帰ってきたのは石ころだけである。テレビに石を投げつけたいくらいだろう。
と、まあこんな家族の戦争体験を聞きながら少年時代を過ごしているが、沖縄では珍しい話でもない。お年寄りの話す「命どぅ宝」「いくさやならんどー」(戦争はだめだよー)は沁みこんでいるようだ。

 

○基地建設反対―暮らしの中からの思い

 1972年、日本復帰となるが「核抜き本上並み」は守られず、今も米軍基地は居座るどころか200年対応の新基地を沖縄に押し付ける計画だ。戦後の米軍による「銃剣とブルドーザー」で土地を奪われたのとは違い日本政府が反対する県民の声もきかず権力の限りをつくし問答無用で基地建設を進めている。

 米軍機による騒音被害、墜落事故、米兵犯罪を子々孫々受け入れろというのだから、抵抗しないわけにはいかない。国の基地建設に対する我々の抗議は非暴力を徹底している。抗議というよりも説明を求めているだけである。国は住民に納得いく説明を避けて解決の場を司法に委ねた。住民が安心して暮らせるよう、子どもは良い環境で成長してほしい、豊かな自然を壊してほしくない、戦争は嫌だと声をあげただけで裁判所に出頭しなければならないなんて納得できない。国策にかかわる重大な問題で日米安保体制の維持のためなら刃向かうやつは処分してやるーっていう感じか。そんな脅しに沖縄県民は負けません。
 日本国憲法には、国民は平和のうちに生存する権利があり日本は武力をもたないと宣言している。
 高江のスラップ裁判を受理し審理せよという署名を、東京の若い人たちが中心になって集めた。5万人以上の賛同を得たが、裁判所は上告棄却、不受理とした。同チームは最高裁前で抗議集会を開き「裁判所は勉強しろー」と訴えたらしい。同感である。これからのタタカイはスラップ裁判を起こさせない運動を広げていくことかな。(2014・8・18)

 

(本稿は、青年法律家協会弁護士学者合同部会発行の「青年法律家NO523 2014.9.25」に掲載された原稿です)

 

 


2014年11月19日(水)

 

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